「普通」が内包する排他性


障害をカミングアウトすることで、生まれるものってなんだろうか。
本当はこの障害を持っていても、家族も持てるし、仕事だってできる。この障害を理解する友人もいる。
でも、私が今いる環境ではなく、もっと違う価値観が占めている社会だとどうだろう。

「普通」というものを何の悪気なく信じているような人々の中で、例えば私は居場所を見つけられるだろうか。「普通」というもの排他性を考える事なく、むしろ自分の正しさの後ろ盾として疑いなく使うような価値観のなかで。

普通が産み出す悪意は、どこにでも転がっている。
偏見や、違うものを排除しようとする慣習、地方や本州ではなおさらかもしれない。
わたしの場合、「自分が人と違う」ということを、9年間の義務教育と3年間の高校での学校生活で、嫌という程思い知った。
学校教育には、指導要領に則った人間を育成するための国の事業という側面があるので、生徒も先生でさえも、そこから完全には逃れられない統一された価値観がある。異なった価値観を受け入れてくれるのは、変人扱いされている先生だけ。彼らだけは「普通」を頭から信用するなんてことはしなかった。
そんな風に、私たちは国が操作する箱庭で、組織のルールを学び、変人の先生というちょっとした風穴から、人生に関する大きな事を学び、9年間もの年月を過ごす。

私は、そんな箱庭が、社会へ出る為のトレーニング場所として機能することで、同じように普通を盾として生きるサラリーマンを量産しているように思えてならない。現にゆとり教育を受けた、今の若い世代が「宇宙人」と呼ばれ、理解不能に思われていることも、学校教育の影響力の強さを物語っている。

双極性障害でも何でも、人とは違う障害を持って生まれてきて、大多数は、そういった画一した価値観を持った集団の中に放り込まれる。
私たちはそこで、人にもまれて生きていく。
そうして生きる術を身につける。まあ、悪い話じゃない。つらいけど。

でも、生活をするというのはそういう事だと思っている。ひとつ、ひとつ、妥協点を見つけて、慣れていく。
私の場合は、運が良かった。高校を卒業してからはアートの世界に飛び込むことで、みんなから隔離されたりからかわれることもなく生きてこられた。

ただ、違和感だけは拭いきれない。たまに、ひとりぼっちだと、感じることがある。色んな人が色んな方法で、私が普通の生活を送れるように手助けをしてくれているのに、そんなことを思うなんて失礼だと思うけど、それでも、私は誰にも重ならない。

気分の上下を薬でコントロールすると最終的に決断しているのは、自分。
それが正しいか自問自答しているのも自分。
私がどうやったら社会で役に立てるのか考えるのも自分。
そのときに、自分の手になにもないことを受け止めるのも自分。
ここからいなくなってしまいたい衝動を抑えるのも自分。

たまに抱えきれない自分を背負っている感覚になることがある。身体の内側に化け物が潜んでいて、内側から食い荒らされるような。
「普通」の感覚ではおよそ想像もつかない普通ではないことが私の内部で起こっていると感じる。
衝動的なショッピングの後の、どこまでも気分が落ち込んでいく感じ。過度に仕事に集中した後のカラッポになってしまう感じ。
双極性障害の極端さに私自身が振り回される。私が二人いるみたいな気分。

それでも私が生きていこうと思うのは、治りたいという意思と、希望や夢みたいなものを捨てずにいるからなんだと思う。

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