人生を擦り減らして生きる感覚


最近ちょっと落ち気味。

私は鬱状態に入ると、とにかく寝てしまいます。一日15時間以上の睡眠はざらにあることで、食事の時間に起きて食べるだけになってくると20時間近く寝てることもあるくらいです。

よくそれだけ寝てられるな、と自分でも思いますが、何よりやる気が湧かない→現実と向き合うのが苦痛(何もしていないことに罪悪感を感じる)→寝る

…そういう流れでグダグダと過ごす日も少なくないのですが。

美術系の大学で作品制作をしていた頃の話。まだ診断前のこと。

何せ気分屋なので、授業にも出たり出なかったり、かと思えば徹夜で制作してみたり。

でも、制作をしているときは、本当に周りがキラキラ輝いて見えました。
世の中の物事が秩序だって、美しく見えました。
自然の法則性が生活の一つ一つに入り込んでいることに、いちいち感動しました。

そういう強烈な美しさの前で、経験を重ねるほどに、人生を擦り減らして生きている感覚になるんです。

何とも言えない、消費されていくような感覚。生きているのに死がどんどん迫ってくるような感覚。

生き死になんてそんな簡単に理解てきるもんじゃないと言われれば、そうかもしれません。

でも、私の目の前には、濃度の高い、生きる体験の裏に、いつも先の見えない闇が広がっていました。

課題に対して私なりのベストを尽くすことはできたしそれに対して評価もされたけど、私はアーティストにはなりませんでした。

今になって、私はならなくてよかったと改めて思っていますが。(向いていないという理由で。)

正直、感じたものを自分の中で体系化して表現する器が自分にはないと、当時は感じていました。

クリエイティブな仕事をする人は多かれ少なかれ、こういうものと対面しているんだと思うんですが、圧倒的な感受性の裏には、人と違うがゆえの孤独や、爆発的なエネルギーゆえの消耗など、何か暗い一面が見え隠れしているような気がします。

エネルギーは、常に均衡を保とうとするもの。

双極性障害も、そういう意味では自然の摂理のもとに、気分の波という形でエネルギーの均衡を取ろうとしているとも言えるのではないでしょうか。

その振り幅は平均的な値よりは大きいらしいけど。(あえて普通じゃないとは言いません。だってどこからどこまでが普通かを決める権利はこの場合誰にも無いし、普通という言葉を都合良く使ったり使われたりするのも嫌なので。)

思いっきりブランコをこげば、いつもと違う景色が見える。私たちはその景色を見たかもしれない。

ただ、見たからといって何になるか。

私に限ってかもしれませんが、悩みで行き着く所は、そこなんです。

何を見てどうやって生きるか、選択するのは自分自身であるはずなんだけど、私達が生きているのは地面の上であって、地に足を付けて生活できるように治療をしている。
ざっくり言うと、最低限のレベルとして、自殺なんかして死なないように治療する。

高い所から見た景色のことなんて、正直誰かが感心を持つかもしれないけど、生死の問題からしたらどうでもいいことです。

落ち込むことのほうが多い生活で、何のために生きているのか正直見失うこともあります。
躁状態の時のことを思い出すとあまりに醜くて苦しくなります。そりゃあ死にたくなる時もあります。たまに。

でも親が悲しむから、とか、友達が、とか、社会的損失になるからとか、まぁこれは半分冗談ですが、そういう理由だけで、死なないために生きていたくない。
我儘かもしれませんが、私自身の自由をやっぱりどこかで確保しておいて欲しい。

治療の話じゃなくて生き方の話になってしまったような気がしますが、社会的能力に偏り(仕事が出来ないという訳ではなく気分の波が安定しにくい)があるからこそ、社会での生き方についてや社会そのものについて考えられる機会を与えられているような気がします。

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